タヌパック短信 28

●「ありがとうの歌」その後




 大すきなたくきよしみつさんへ

 ありがとう。おはよう。ぼくは、うれしくてかないません。うれしすぎておれいのてがみがかかれん。たくきさん、もうちょっとまってね。そのかわり、し、ができたから} 

(し) ぼくのおんがくができた

 たくきさんうれしいよー
 ぼくのあたまがやぶれるよー
 おかあさんがないたよ
 うれしいんだって
 おとうさんもなきそうになった
 おかあさんをみて
 なきそうになった
 うれしいんだって
 ぼくはなかんかった
 なみだなんかでんよ
 うれしいのにでんよ
 ぼくのからだが
 大よろこびしています
 たくきさんありがとう
   3月28日 くりすあきら
 

 テープを送った数日後、こんなFAXが新潟の仕事場に自動転送されてきました。どうやら気に入ってくれたようです。
 その後も、お礼の手紙やFAXが何通も立て続けに届きました。

 たくきよしみつさんへ
たくきさんおはよう。ぼくは、まい日うれしくてかないません。いまごろたくきさんにむちゅうです。あさおきたらすぐありがとうのうたをききます。たくきさん大大すきよ。やしまさんが、てーぷきいたーええきょくだなーてでんわをかけてきたよ。こいでさんもほめてくれたよ。うれしいね。このあいだ、びょういんへいってね。先生に、てーぷあげたよ。そしたらね、先生が、てれびみたいなもんに、ぼたんをおして、たくきさんのことがでたよ*。ようこそ、たぬぱっくえいうてでたよ。たぬもでたしたくきさんもでたよ。先生とかんごふさんとぼくとでてをたたいておおよろこびをしました。ぼくは、たくきさんのいえに、あそびにいったきぶんになりました。うれしいかったよ。みんながええきょくだねとほめてくれるので、うれしいです。いまからりーさーびす**にいってきます。たくきさんもがんばって今日のいきをしてください。バーイ くりすあきら4月4日

(*インターネットのWEBページ『タヌパックスタジオ』(http://www2e.biglobe.ne.jp/~takuki/)のこと。「てれびみたいなもん」というのはパソコンのことです。**デーサービスセンターという養護施設のことのようです。彼は「デー」「ディー」を「りー」と表記することが多いようです。最近気がつきました)

……というわけで、栗栖さんは『ありがとう』の歌を気に入ってくれたようです。
 テープをいっぱい買い込んで、歌をダビングしてお世話になった人たちへ送ったようで、暫くしてからそのテープを受け取った人たちからのお礼状や「いい曲だね。おめでとう」というメッセージなどもコピーして送ってくれました。
 未だにあのメロディーがどれだけ受け入れられたかは自信がありません。
 妻は「天才が作った詩に負けないメロディーをつけるのは無理なのよ」と言いました。そうかもしれません。本当に力のある詩には、メロディーは不要だという気もします。
 でもまあ、ここは素直に、よかったよかったと思うことにしましょう。
 亡くなった井津先生の「一人に向かって」という言葉を思い出しました。
 私は「一人に向かって」をモットーに生きていくことにしています。その方が、結局は普遍性を獲得すると思います。(中略)経済的な価値観では数の多いことを価値あることとしますが、数が少ないほど価値のある世界というものがあることを私は信じています。(中略)大切なことは喝采の物理的な音量ではないのです。数字の多さ以外の何かが尊いのです。その何かをじかに感じればよいのです。それを言葉で規定する必要はありません。きみの音楽活動が、私のこんな考え方に幾分でも接点を持ちうるものでしたら、影ながら声援を送りたいと思います。
 この原稿を書くために、久々に『狸と線譜』(三交社)を開いてみました。改めてこの文章に接し、ああ、このことだったんだなと気づかされました。意識して作ったわけでは決してなく、むしろ戸惑いながら作った音楽でした。でもそれが栗栖さんや彼の回りの人々をひととき幸福にさせたのだったら、これこそ井津先生のおっしゃっていた「何か」に触れることができたのかもしれません。
 物事の価値は数ではない。質なのだということを最近はいろいろな場面で痛感し、自分に言い聞かせているのですが、やはりともすると数の力の前にひれ伏してしまいがちです。最も辛いのは「仕事」としての創作活動の現場で、質ではなく数の論理で攻められること。どう戦い、どう折り合いをつけるかが難しいところです。
 栗栖さんは「お礼です」と、絵入りの詩を何枚も送ってくれました。僕だけ見ているのはもったいないので、彼に断った上で、インターネット上で公開しています。






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