『アンガジェ』・立ち読み版

   書 名:アンガジェ
   著 者:鐸木能光
   版 型:A5版単行本、308ページ
   版 元:読売新聞社 (1996年・絶版)


 祈り、再生、癒やし……

 真の愛を求める旅人の

 心の闇を照らす歌「アンガジェ」


 無頼の中年ギタリスト・田口は、街角で知り合った、不思議な曲「アンガジェ」を歌う少女・夏実の歌声に魅了される。ミリオンヒットを連発する流行作曲家・江中もまた夏実の歌声のとりことなり、彼女の芸能界デビューを画策するが、その裏には、音楽によって人間をマインドコントロールしようとする謎の組織があった。

 音楽は人を生かすか? 殺すか?
 心の再生と癒やしの旋律「アンガジェ」が奏でる、現代人のための新しい恋愛小説。


 

アンガジェ

星を求める蛾の願い
朝を求める夜の願い
人の世の哀しみの地表から捧げる
遠く遥かなるものへの祈り

(P.B.Shelly, "To──")

 この世はすべてが二重構造になっている。表と裏、見えるものと見えないもの。正と負。
 人間は二重構造の一方の側に住んでいる。仮にこの世界を「表」とするなら、「表」の住民である人間には、裏の世界はなかなか見えてこない。

 片方だけしか見えないから、人は心の中に、どうしても満たされぬ何かを感じる。
十八世紀の詩人シェリーは、その穴を埋める光を求めて夜空を見上げた。しかし、夜空とて、「見える世界」の延長上に存在している現実にすぎない。闇を埋めるものは星の光ではない。

 闇から生ずる空虚感・飢餓感を埋める光は、闇の中にある。「裏」の世界、見えない世界、闇の世界にこそ、求める光がある。それに気づいたとき、人は視線を天から地へと移す。そしてようやく、自分の心の奥の世界へと戻ってくる。

 ……光?
 もちろんそれは喩えだ。必ずしも明るく輝いているということではない。
 その光は、実は闇よりも濃い黒衣をまとい、井戸の中の水蒸気のようにひっそりと身を潜めているのかもしれない。
 目を閉じれば闇が訪れる。でも、それは仮想の闇だ。真の闇の世界が訪れるということではない。目を閉じただけで闇の世界に踏み込めるのなら、人は毎日のように闇の世界に散歩に出ることができるだろうが。

 結局、真の闇の世界へ通じる入口は、簡単には見つけられない。

 心の中には、いくつもの井戸がある。何かの拍子に人は自分の心の中に暗い井戸の入口を見つけ、自然と中を覗き込む。
 浅い井戸の底に見えている水面は、かすかに光を反射している。
 少し工夫すれば、水面をかき回すこともできるし、水を汲むこともできる。でも、手に入れた瞬間、それは求めていた光ではなくなってしまうに違いない。

 時折、底が見えない深い井戸に出くわすことがある。暗く静かな井戸は、覗いても、その闇の先に求める水があるのかどうかは分からない。

「じゃあ、石を投げ入れてみればいいわ。水があるなら音がするでしょう?」
 彼女が言った。

 でも、その音が耳に届かないくらい深い井戸だったら?

「そんな深い井戸なんて、あるわけないわ」

 そうかな。石を投げ入れたくらいでは答えを返してくれないような深い井戸だからこそ、その奥に眠るものに触れたくなるんじゃないかな?

「どうぞご自由に。あなたが本当にその闇の先を見極めたいのなら、言葉を重ねている前に行動すれば? 地球の裏側にまで届くようなロープを捜してくるとかして」

 でも、そんなロープを見つけた人間なんて、多分、いまだかつて一人もいないに違いない。

 

∠¶∈




 あの夜、なぜ酔っていたのかは覚えていない。
 記憶は渋谷駅の構内から始まっている。
 俺は家に帰ろうとしていた。早めに終わった仕事の後で打ち上げがあったのか、それともリハーサルが終わってミュージシャン仲間と一杯飲んでいたのか、とにかく俺は酔っていて、手にはギターを持っていた。
 井の頭線のホームに向かう途中、どこかから『禁じられた遊び』が聞こえてきた。
 確か、三月の終わりくらいだったと思う。時刻は夜の十一時頃だっただろうか、駅の構内は俺のような酔っぱらいや、残業を終えて家に戻る勤め人たちでごった返していた。雑踏の合間を縫うように、正確なトレモロが流れてきたのだった。
 俺は反射的に音の出所を探った。チューニングが狂ったフォークギターの粗雑なストロークにだみ声といった、お決まりのフォーク系ストリートミュージシャンだったら、存在を確かめることすらしなかっただろう。しかし、そのトレモロはプロのギタリストである俺の足を止めるほど、十分にうまかった。
 太い柱にもたれて座っている白髪の外国人の姿を認めるまでに、ほとんど時間はかからなかった。歳は五十代だろうか。もしかしたら還暦を超えているかもしれない。下半身には毛布が掛けられ、タイル張りの通路からの冷気に備えている。目尻の深い皺と張りを失った頬の皮膚が、彼の決して楽ではなかったであろう人生を物語っているようだった。
 俺はかすかにもつれる足をその老ギタリストの方向へ運んだ。
 ギターは安物のエレクトリック・ガットギターだった。定価六万円、実売価格は四万円台というところだろうか。それに小さな電池式アンプをつないで鳴らしている。電池が減ってきているのか、音量はひどく頼りない。
 もっとも、彼が日常的にエレガットを弾いているとは思えなかった。普段はクラシックギターを使っていて、この安物のエレガットはストリート・パフォーマンス用のものに違いない。酔っぱらいややくざにいつからまれてもおかしくない場所で百万円のラミレスを弾く勇気は、俺にだってない。
 俺は彼から二メートルくらいのところに立って暫く演奏を聴いていた。
 ギターケースの中には、千円札数枚と硬貨が何枚か入っていた。自費制作のものだろう、地味なジャケットのCDも置かれている。一枚二千五百円と書いてある。ギターケースの中の紙幣から判断するに、あまり売れてはいないようだ。
「なんだよ。早く行こうぜ」
 背後で男の声がした。
 振り向くと、背の高い若い女がやはり足を止めて彼の演奏に聴き入っていた。連れの男が彼女を促しているのだ。
 女は軽蔑するようなまなざしで男を見ると「やめたわ」と言った。
「やめたって、どういうことだよ。商談成立じゃなかったのかよ」
 男がむっとした声で問いただした。
「気分が変わったの。さよなら」
「冗談じゃねえよ。俺、浦和から出てきたんだぜ。今さらそれはねえだろ」
 男は女の手を引こうとしたが、女は強い意志でその手を振り払った。
 騒ぎが耳に入ったのか、老ギタリストは怪訝そうな顔で二人のほうを見たが、自分に直接関係がないと分かると、再び視線をギターのネックのほうに戻し、演奏を続けた。
 男はさらに一言二言悪態をついていたが、やがて諦めてどこかへ消えた。
『禁じられた遊び』は終わっていた。
 演奏が終わっても立ち去らないでいるのは、俺とその若い女だけだった。
 ギタリストは女を見上げると、「リクエストありますか?」と、割合しっかりした発音で言った。
 女は咄嗟には返事ができないようだった。
 ギタリストは次に俺が持っていたギターケースに目を移した。
「あなたもギターを弾くネ」
「まあ……ちょこっと」
「チャコット? 分からない、その言葉。ロックですか?」
「ノー。ジャズ」
「オォ、すばらしい。どうですか? 一緒に」
 外交辞令だということは、目が不自然に笑っていることで分かった。俺が大して弾けないと思っているに違いない。だから、そう誘っても、間違っても一緒にここで即興演奏をやることになるわけがないと思っている。それだけ自分の技術には絶大な自信があるのだろう。
 確かに彼はうまい。少なくともあのトレモロは俺には弾けない。しかし……。
「あの……、ジョビンの曲を何かやってもらえませんか?」
 ふいに隣の女がそう言った。さっきの「リクエストありますか?」に対する答えだった。「ジョビン? "The Girl From Ipanema"? "Wave"?……」
「How Insensitive」
 女はとてもきれいな発音でそう言った。
 ギタリストは感心したようににやっと笑うと、ゆったりとフェイク気味のイントロを弾き始めた。そしてなだらかにボサノバのリズムへ移行する。
 さっきの演奏のムードとはがらりと変わっていた。『禁じられた遊び』は、一種「営業用」のものだったのかもしれない。そう思わせるほど、彼は生き生きとボサノバを弾いた。コードとメロディーを巧みに絡ませながら、まるで二台のギターが演奏しているように見事にテーマを弾く。タック・アンドレスを思わせるような技術だった。
 俺は暫く感心して見守っていた。これだけの演奏をストリートミュージシャンがやるのか……と思うと、なんだか哀しくなった。
 技術はあるがまったく無名のミュージシャンなど、世の中に掃いて捨てるほどいる。運命の過酷さに今さら感傷的になったところでどうしようもないが、酔っていたせいもあったのだろう、俺は何かを打ち消すかのように自分のギターケースを開いていた。
 中には、彼が弾いているのと同じタイプのエレクトリック・ガットギターが入っている。ただし、ものははるかに上だ。個人工房に特注したもので、表板はドイツ松の単板。横裏は今ではもうワシントン条約とやらで入手不能になったハカランダの単板でできている。胴は彼のものよりは分厚く、生音でもかなりの音量が出る。
 無造作にギターを掴むと、俺は耳元にひょいと持ち上げて指の腹で軽く各弦を弾いてみた。チューニングはほとんど合っている。彼のギターとも合っている。
 ストラップに首を通し、ギターを肩から下げると、俺は彼の演奏の後ろにするりと入り込み、軽くコードバッキングを加え始めた。
 彼は一瞬意外そうな顔で俺を見上げたが、俺が正確なリズムできっちりバックを支え始めたことで、笑顔を返し、より自由なアドリブへと次第に移行していった。
 人差し指、中指、薬指の三本で素早く弦を掻き上げる、フラメンコに近い奏法で、速弾きのアドリブを展開する。フレージングはジャズよりは多少泥臭かった。テンションの入れ方もヨーロッパ、いや、もっとはっきり言えばジプシーの薫りがする。
 ジャズギタリストとはかなり共演してきたが、こんなアドリブを弾くギタリストとセッションするのは初めてだった。
 俺のギターはアンプにつながれていない生音なので、かなり意識して強く弾いた。でも、彼の電池式アンプもますます音がか弱くなってきていて、音量的にはいい勝負だった。つまり、雑踏の中では、ほとんど周囲数メートルにしか聞こえない。まともな聴衆はこの曲をリクエストした女一人だった。足を留めるものはほとんどいない。歩く速度を緩めても、すぐに通り過ぎていく。こんな演奏、ライブハウスだってそう滅多に聴けるものではないだろうに。
 二コーラス分のアドリブが終わると、彼は目配せして俺にアドリブを取れと合図した。
 そうくるかな、と多少は予測していたので、あまり遅れることもなく俺はアドリブに転じた。
『ハウ・インセンシティブ』を弾くのは久しぶりだ。ジョビンの代表曲は大体暗譜しているが、彼の特徴的なアドリブを聴いた直後だっただけに、本来の自分の音を捜し出すまでに少し手間取った。いいところを見せようとして、速弾きに固執したきらいもある。あちこち少しずつひっかかり、指がもたついた。それでも、素人に気づかれるほどではない。隣で聴き入っていた女が目を皿のようにして俺の手元を見つめているのが分かった。
 老ギタリストのバッキングは正確で気持ちがよかった。びしっと縦の線が揃っているので、アドリブをする側は安心して揺らぎを出すことができる。
 最後はオクターブ奏法も繰り出して、俺は一コーラス分のアドリブを終えた。
 テーマを再び彼が取った。最後は目で確認しあってのカデンツァ。
 七分近くやっていたのではないだろうか、気がつくと、彼女の他に、もう二、三人が立ち止まって聴いていた。
「イエーイ」
 顔を赤らめた三十代くらいの男が声をかけた。
 いい気分になってきたところだったが、そのサラリーマン風の男の背後に、制服を着た男が二人、足早に近づいてくるのが見えた。
「おひらきですネ。楽しかったヨ」
 老ギタリストはそう言うと、そそくさと楽器を片づけ始めた。
 面倒に巻き込まれるのはごめんだった。俺もさっさとギターをケースにしまうと、制服の男たちが声をかけてくる前にその場を後にした。
 井の頭線はすでに最終に近かったが、乗車率は朝のラッシュ時と大して変わらなかった。
 酔いはすっかり醒めて、一種の後味の悪さだけが残っていた。
 なぜ気持ちよくないのか、そのときは自分の心を分析する気にはなれなかった。

(以下は、お買い求めの上、お楽しみください)

アマゾンコムで古書を注文   たぬ書房マークたぬ書房でも扱っております。    電子書籍もあります。

アンガジェ

 indexへ戻る    著作リストへ戻る