草の根通信版 タヌパック短信 2
●実父の残したギター


 人が死んだ話が続きますが、もう一人の死というのは僕の実父であります。
 僕が四歳のときに両親が離婚し、以後、僕は母に引き取られて実父の顔を知らないまま育ちました。
 母は前夫(僕にとっての実父)が写っている写真のすべてを処分し、僕の記憶から父親のことを完全に消し去ろうとマインドコントロールしたようです。素直な僕は順調に父親のことは忘れ、以前の名字さえも忘れました。
 母の離婚直後、幼稚園で園児たちの前に立たされ「今日から○○君は△△君になります」と改めて紹介された記憶があります。普通なら世間体も考えて、小学校入学時くらいまでは前の姓のままにしておきそうなものですが、見事な徹底ぶりです。
 母は二年後に再婚し、僕には新しい父ができました。実父のほうはそれより先、離婚直後に十歳年下の女性と再婚してさっさと娘をもうけていました。
「鐸木」というのは養父の姓です。僕にとっては三番目の姓になります(実父の姓⇒母の旧姓⇒養父の姓)。
 養父は母の職場の同僚で、実父のこともよく知っていました。母が離婚前から言い寄っていたようですから、どうも「ダブル不倫」の疑い濃厚ですね。
 両親の離婚後、部屋の隅から音叉が一本出てきました。玩具代わりにして遊んでいたのですが、母はそれを見て「そんなものは捨てなさい」と言いました。父がギターの調弦用に使っていた音叉だと分かったのはずっと後になって、自分でもギターを弾くようになってからのことです。音叉にはうっすらと名前が刻まれていました。忘れていた父の名前をその音叉によって知ったのも後日になってのことです。
 その父のことが妙に気になり始めたのは三十五を過ぎてからです。父は演歌が好きで、ギターの弾き語りがうまかったそうなのですが、そのことが次第に自分の心の中で重みを増していきました。思えば、僕が中学生でギターを始めようとしたとき、母はいい顔をしませんでした。「なぜピアノやバイオリンじゃ駄目なのか」「どうせまた放り出すに決まっている」と、あからさまに反対します。めげずに説得してギターを始めたのですが、やめるどころかすぐにプロになると宣言し、以後今になるまで音楽と格闘しています。
 音楽を諦めきれないのはやはり父の血を受け継いでいるからなのではないかという思いが膨らみました。
 NTTで電話番号を調べて電話をしてみたところ、奥さんが出ました。名前を名乗り、「昔、お世話になった者なんですが……」と曖昧に告げると、「最近は惚けてきて、アル中も進んでいるし、会うとがっかりされますよ」という返事。代わりに陽気な口調の奥さんと小一時間話しましたが、父は歌だけではなく、文章を書くのも好きで、新聞や雑誌の投稿欄によく文章を載せていたとか、いつかは本を出したいと言っていたなどということが分かり、改めて驚かされました。
 悩んだ末、僕は初めて実父に手紙を書き、弾き語りを録音したカセットテープを同封して送りました。数日後、電話がかかってきて、いきなり「よしみつか? お父さんだ!」と言われたときにはさすがにびっくりしました。父と話したのは結局その電話だけです。
 今年に入ってから、奥様から手紙が届きました。
「あなたの父親○○××は昨年の六月十七日に亡くなりました。……」
 僕の居所を突き止めるのにだいぶ時間がかかったようです。以前電話をかけてきたのが夫の息子だったというのも分かっていなかったようです。
 一周忌に出てきました。集まった親戚一同、目を丸くして驚いていました。
「××にそっくりだ」「顔だけじゃなく、歯並びや仕草まで似ている」
 異母妹・弟にも初めて会いました。さらに驚いたことには、父の死後、天井裏から謎の古ぼけた鞄が出てきて、そこには僕や母と一緒に写っている写真や昔の日記帳、母が書いたラブレターなどが入っていたんですね。
 日記帳は二冊あり、一冊目には、僕が生まれる日のことを父が克明に記録した文章が残っていました。分娩室から追い出された父が、病院の外に出て窓越しに中の様子を窺うくだりなどは泣かせます。難産で、一瞬分娩室の中がシーンとしたときには、死産あるいは産死という二文字が浮かび、神に「母子共に、母子共に……」と祈ったというんですね。「星がきれいな夜で……」という一節で、自分が夜生まれたのだということも初めて知りました。
 二冊目の日記帳には、離婚直前の夫婦間の軋轢が赤裸々に書かれていました。父が「こんなアマに一生なめられて生きていかねばならないのか」などと愚痴をぶちまけている日記の後に、突然母の筆跡で、「黙ってここまで読ませてもらいましたが、あなたはあなた、私は私で……」と延々反論が続き、最後は「あなたがどうしても別れたいなら別れても仕方がないですし……」という文で終わっています。
 幸せな新婚時代、長男出生時の祈り、そして離婚直前の泥沼時期と、見事に三点セットで記録が残されていたわけです。父は引っ越しの度にこの記録を大切に持ち運び、家族に気づかれないよう屋根裏に隠し続けたのですね。
 法事の最後に、父が死の直前まで愛用していたギターを渡され、親族と遺影の前で一曲歌いました。そのギターは形見として貰ってきて、今はタヌパックスタジオの片隅に置いてあります。
メッセージの伝達って、とても難しく、切ないものですね。


(「草の根通信」1995年8月号掲載)
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