オルカのため息



 この連載も随分長くなりましたが、そもそも最初に、未発表だった僕の原稿『狸と五線譜』を松下センセのもとに持ち込んでくださったSさんから、久しぶりにFAXがありました。
 エルザの会という野生動物保護活動団体の女性から、水族館にいるオルカ・イルカを自由にするための署名運動に協力してほしい旨のコンタクトがあったのだけれど、次回の「草の根通信」で取り上げてもらえないかというような内容でした。
 そのFAXには、「鐸木さんはWWFの会員でしたよね。ですからあなたの音楽CDはきっとWWFにも行き渡っていることと思います。でも、エルザの会についてはどうでしょうか?」という一節がありました。
 とりあえず、タヌパックの音楽CDがWWF会員に「行き渡っている」などというのはとんでもない誤解です。
 最初のCD『狸と五線譜』を作ったとき、自らWWFにサンプルを送付し、利益は寄付するからパンダショップで扱ってもらえないかと持ちかけたのですが、断られてしまいました。その代わりに、会報の巻末にある「本の紹介」のコーナーに小さく取り上げられ、それを見た会員が二、三人CDを注文してくれました。
 僕がジャズギターの師匠と組んだギターデュオ「KAMUNA」のファーストアルバム『グレイの鍵盤』の一曲目には、その名もズバリ『オルカのため息(Orc's Grief)』という曲が入っています。波の音で始まり、合間に哀切なオルカ(?)の鳴き声が混じるこの曲は、二年ほど前からNHKのBS7深夜の「World Weather」のBGMとして流れ続けています。
 これを聴いて気に入り、CD店を探し回っても見つけられず、最後、NHKに電話をかけ、タヌパックにたどり着く人もいます。インターネット通販もしているので、外国人が電子メールでCDを注文してきたこともあります。
 CD『グレイの鍵盤』は、同名の小説単行本(翔泳社から出版されたものの、まったく売れず、すぐに絶版)と同時発表したものですが、この本のほうにも『オルカのため息』という短編小説が収録されています。
 また、僕の小説デビュー作『プラネタリウムの空』(とっくに絶版)にも、主人公の男女がこんな会話をするシーンがあります。
「そういえば、さっき見たシャチのショーだけど、プールの向こうが海だったわね」
「うん。ジャンプしたときなんか、海が見えるんじゃないかなあ」
「帰りたいだろうね。海に」
「うん」

 この『プラネタリウムの空』に付属している音楽CDにも、同名でまったく別の『オルカのため息』という曲が入っていました。
 インターネットで、作家の森下一仁さんが太地のシャチ捕獲問題に触れているのを知り、そこからのリンクで「フリーオルカ」(シャチを自由にする運動をしている団体)の網頁へ飛び、電子署名したこともあります。
 僕個人は、「囚われた野生動物」には心を痛めています。でも、今はもう、声高に主張することはしません。
 ささやかな平和を見出そうとしている大多数の「生活庶民」たちは、ただでさえ息苦しい世の中を生きていかなければならないのに、これ以上、辛いことや面倒なことは見たくない、接したくないという一種の防御本能を働かせます。それを責めるよりは、癒しとなる活動をするほうが自分の性に合っています。要するに、僕自身、とても疲れていて、何かに癒されたいのです。
 小説『オルカのため息』を読んで、「いいよね、あれ」と言ってくれた人たちや、『オルカのため息』のCDを買いたい一心でわざわざNHKに電話までかけてくれた人たちの多くは、環境問題や生物保護問題には直接関わっていない、普通の営業マン、歯医者さん、お寿司屋さん、OL、主婦といった人たちです。逆に、運動のまっただ中にいる人たちはどこか怖そうで、小説や音楽の話を楽しくできないような閉塞感を漂わせていることがあります。
 本当は、ずっと前から、『オルカのため息』に歌詞がつけられ、世界的に、野生生物を愛する人たちの間で静かに歌われたら素晴らしいなあという希望は持っていました。シンボルとなる歌手のイメージは、アストラット・ジルベルト、石川セリ、小野リサ……?
 ちなみに、あの曲の出だし部分だけは、歌詞が見えています。「ソーレード♪」のところが「Set me free」。
 プロの翻訳家にこの続きを書いてみてくれないかと打診したこともありますが、即座に断られてしまいました。
 ポール・ウィンターの音楽は、海洋生物学者のロジャー・ペイン博士との交流を通じて、世界的な海洋生物保護運動に結びついていますが、『オルカのため息』は未だに孤立したままです。
 でも、僕は自分からこれを環境保護団体などに売り込もうとは思いません。あくまでも音楽は音楽であり、何かの手段だとは考えたくないからです。
 囚われたオルカとは比べものになりませんが、僕自身も言い様のない閉塞感を覚えています。それでもSさんの言うように「幸福指数の算出方法を編み出す余裕があるなんて、まだまだ幸せ度の高い人」なんでしょう。でもね、最後の余裕まで失ったら、それこそ人を感動させること、動かすことはできないと思うんですよ。そう念じつつ、心の中で静かに歌っています。
 ♪ Set me free...
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